それは僕が痺れを切らして葉瀬中へ出向いた日の事。
逃げ出した君を僕は追いかけて追いかけて、そして家まで押しかけてしまった。
幸い、家の人は留守だったようだ。
「そんな事は僕が許さない。」
「・・・・。」
「君があの日突然、僕の前に現れた。全ての始まりはここにある。」
───あれは・・・佐為だよ。
佐為の強さにお前は惹かれて・・・・・。
「何もかも、始まりは君なんだ!」
ベッドに腰掛けていた進藤の胸倉を掴んでいた僕は
勢いあまってそのまま押し倒してしまった。
「なのに・・・その君がリタイアすると言うのか!!」
進藤の瞳は虚ろなまま。
どんな時も僕を追っていた君の瞳は死んだまま、だ。
「ふざけるな!!」
仰向けに横たわった進藤の瞳が、瞳だけが僕に向けられる。
その瞳に僕は映っているが、進藤が見ているのは僕ではない。
───佐為・・・・・。
進藤が別の誰かの名前を呼んだ。
声は聞こえない。
が、その唇が間違いなくその名を口にした。
「sai」
sai。
僕も一度打った。
完敗だった。
saiと、初めて会った時の進藤。
どう考えても何度考えてもsaiとあの時の進藤が重なる。
saiとは何者なんだ。
進藤と一体どういう・・・・。
───佐為・・・・・。
また・・・進藤の唇がその名を紡ぐ。
僕は、あの日からずっと進藤を追っている。
saiを追っている。
一度は離れてみた。
しかし、君が全力で追ってきた。
海王での大会。無様な君。
あんなに弱い進藤ヒカルを、僕は追い求めていたのではない。
なのにどうしても・・・・・・・
僕には君を無視できなかった。
僕は知りたい。
何故、君なのか。
何故、僕なのか。
そして君の正体は。
今も・・・・僕はこんなに・・・なのに進藤は、今・・・・・。
───佐・・・・。
その名を口にするな!!
気がついた時には・・・僕は唇で進藤の唇を塞いでいた。
あ・・・・・。
我に返った時、その柔らかな感触を唇に感じていて。
慌てた。
何故、僕はこんなとんでもない事を!
いや、今はそんな事より!
とにかく離れて謝ろうと思った。
そう思ったのに・・・・・。
この状態にあっても、まだ君は僕を見ていなかった。
君の瞳は虚ろなまま。
こんなに近くにいる、触れている僕を通り越してsaiを見ているのか・・・・・。
絶望か、悔しさか、悲しみか。
やりきれない想いが、感情が溢れ出す。
こんな想いにさせるのは、君以外にいない。
こんなに僕の心をかき乱すのは・・・・君だけ・・・・なのに・・・・!!
僕はsaiを追ってきた。
ずっとsaiを追い、君の中にsaiを見て・・・。
初めて会った時の進藤ヒカル。
海王中、囲碁部の大会での進藤ヒカル。
そして今日、葉瀬中の図書室での事。
「俺なんかが打ってもしょうがないってことさ!」
「僕はそう思わない。」
あれは本音。
「俺の幻影なんか追ってると、ホントの俺にいつか足元すくわれるぞ!」
俺の幻影・・・・ホントの俺・・・・・・。
進藤はsaiではない。
・・・・・しかしsaiは進藤だ。
この全く相反する僕の答え。
君の中に・・・もう一人・・・・いる。
君とsaiの間には一体どんな謎が・・・・。
知りたい・・・・知りたい・・・!!
でも今は。
君に戻って来てほしい。
君が戻ってこなくては始まらない。
何も始まらないんだ!!
僕と君は・・・打つ運命にある。
何故だか、そう感じる。
でなければ何故あの時、君と僕は出会った?
何故、君は僕を追い、僕は君を追うのか。
君の瞳は・・・・まだ僕を通り越して虚空を見つめたまま。
我慢ならなくなって、やりきれなくて・・・・たまらなくて・・・・・・
僕は唇をかみしめながら君を抱きしめた。
細い。
こんなに・・・・。
そうだ、以前の君から考えたら最近は明らかにやつれた。
こんなになる程、君はsaiを想って・・・・。
「進藤・・・saiとは何者だ。」
抱きしめた状態で問う。
するとたった今まで虚ろだったその体がピクッ・・と反応したのが
抱きしめた僕の体に伝わってきた。
「進藤・・・saiとは・・・。」
「あ、あ・・・・・・。」
おかしい・・明らかに進藤の様子が。
「ああ、・・・・あ〜〜〜・・・!!」
悲痛な叫び、そして流れる涙。
どうしたら良いのか分からなくて
このまま放っておいたら
進藤がおかしくなってしまいそうで、どこか遠くへ行ってしまいそうで
どうしても繋ぎとめておきたくて
僕は無我夢中で進藤を抱きしめた。
強く──────。
僕の腕の中で進藤が跳ねる。
腕を振り払おうともがく。
そして泣き叫ぶ。
「進藤・・・・進藤・・・・・!!」
腕の中の君は、か細く・・・でもこんなにも温かだ。
君は間違いなく生きている。
でもこのままでは死んでしまう。
心臓は動いていても、その心が死んでしまう。
どうすれば・・・いい・・・・・・・・。
叫び、暴れていた進藤が大人しくなった。
再び虚ろな顔・・・その姿はまるで抜け殻。
どうしたら・・・・進藤は・・・・・・・。
腕に進藤を抱きつつ、その横顔を伺った。
以前の君の頬はもっとふっくらしていた。
今は肉が削げ落ちてしまっている。
その頬に、僕は無意識のうちに・・・唇を寄せていた。
弾力のない頬。
そして僕の唇は首筋に移り、制服のボタンに手をかけて
一つ、また一つと外していった。
この時の僕には思考など存在しなかった。
でなければ、何故、こんな大胆な事が出来ようか。
現れた進藤の素肌。
・・・・こんなに・・・痩せて・・・・・・。
出会った頃の進藤はもっと元気で快活で。
「ちょっとプロになってチョコチョコっとタイトルの一つや二つ・・・」
などと・・
真面目に囲碁をやっている人間が聞いたら激怒するような冗談を平気で言えるような
そうだ、極々ありふれた普通の・・・明るすぎるくらいに元気な少年だった。
なのに今の進藤は・・・・・・・。
その姿があまりに酷くて・・・見ているのが辛くて・・・
僕は思わず瞳を固く閉じた。
すると僕の瞳から涙が溢れ出して・・・・。
自分自身、驚いてしまって。
泣いている?僕が?
何故・・・・。
進藤がこんなに酷い状態に成り果ててしまったから?
だからって涙など・・・・。
──────saiと何があった。
聞きたい。
でも聞けない・・・今の進藤の様子じゃ・・・とても聞けない。
確かな事は。
saiが君にとって掛け替えのない存在だという事。
そのsaiのせいで君が今、こんな状態になってしまっているという事。
そして事情を聞く事も出来ないほどに君が・・・・・・・。
君がsaiを想って想って・・・・こんなになる程に想っているという事。
僕はどうしたらいい。
どうしたら・・・君は戻ってくる・・・・。
僕の涙がポタポタと・・・君の胸を濡らしていた。
今のこの状態の進藤を、例え思い切り殴っても、その意識は戻ってこないだろう。
・・・・・・囲碁しかない。
saiと君と僕を繋ぐもの────それは碁。
だが瞳を開いていても、意識がここにない進藤に碁など・・・・。
─────どうしたら・・・いい・・・・・・。
一度溢れ出した涙はとめどなく流れ続けた。
流れる涙は、僕の奥底に眠っていた感情も表面に流し出してくれた。
この状態にあって為す術もない己の無力さ、悔しさ、やりきれなさ。
君だけに感じる、激しい憤り、はがゆさ。
そんなものが次々流れ出てきて、最後に残ったものがあった。
・・・・・。
僕はようやく気付いたんだ。
僕は・・・進藤が好きなのだ。
好き・・・だったんだ、ずっと前から。
どうしてこんな簡単な事に今まで気付かなかったんだろう。
なんてことだ・・・・・。
「もう二度と君の前には現れない。」
「ま、待てよ、塔矢!
俺の幻影なんか追ってるとホントの俺にいつか足元すくわれるぞ!」
「君が?・・・・いつかと言わず、今から打とうか?」
君の事になると、あんなに向きになって。
一度はあの時、僕のほうから離れてみたものの、結局は追いかけて追いかけて・・・・。
君を知れば知るほどに、僕は君を追った。
君に・・・惹かれた・・・自分では制御できないほどに・・・そこまで僕は君を・・・いつの間にか・・・・・・。
最初はsaiを追っているのだと自分では思っていた。
しかし違った・・・ようだ。
saiには勿論惹かれる。
あの圧倒的な強さには為す術もない、しかし挑みたい・・・。
神の一手に一番近いと言われる父以上に、何か神がかり的な、あのsaiの強さに触れていたい。
進藤はsaiだという僕の直感。
あながち間違いではないと思う・・・しかし間違いでもあると思う。
だから進藤にこんなにも惹かれるのか・・・
あろう事か・・・好きに・・・なってしまったのか・・・・!?
わからない・・・・わからない・・・・わからない・・・・!!
僕は・・・・君と共に歩いていきたい。
君と共に神の一手を探求していきたい。
君のその瞳を、僕に向けていてほしい。
その真剣な澄んだ瞳を・・・僕だけに・・・・・・。
君はそもそも、僕を追って、僕と打つためにプロまでやって来たのではなかったのか。
出会った頃は、やる気も何も君からは感じなかったのに
あの囲碁部の大会からだろうか、気づけば君は僕を強く見据えていた。
僕だけを見ていた。
君の姿は眼差しは、いつも僕をかき乱す。
僕の心に火をつける。
僕は・・・・あの初めての対局から・・・・・・
進藤、君しか見えなくなった。
しかし進藤は・・・僕を見ていると思っていた進藤は・・・今・・・・・・・・。
「くっそ・・・・!!」
感情のまま、拳をベッドに・・進藤の顔のすぐ脇に叩きつけた。
進藤の瞳の輝きは、失われたまま─────────。
どれくらい時間が過ぎただろう。
僕は最後に一つ、大きなため息をついた。
そして外してしまった進藤のシャツのボタンを一つ一つ戻していった。
改めて僕の腕の中の進藤に瞳を落とす。
やはり、何も見ていない瞳、何も感じていない瞳。
「進藤。僕は先へ行く。全力で上を目指す。
君が追って来るのを・・・・待っている。」
最後に唇をそっと重ねた。
今、僕に出来る事はきっとこれしかない。
全力で上を目指す事が、進藤への何よりのメッセージ。
進藤をプロの世界に引きずり込んだのは僕。
僕がいたから君は来た。
この点だけは確信を持っていいはずだ。
その僕が今度の本因坊リーグ入りを果たせば、進藤は必ず僕の前に現れる。
彼が向かうべき本当の相手は僕しかいない。
必ず・・・リーグ入りしてみせる。
僕はここにいると、全力で示してみせる、君に・・・・君だけに。
だから・・・・来い、進藤!!
僕の前に。
本当の意味で、僕の前に・・・・今度こそ。
それから数か月が過ぎた。
進藤には、あの日僕がしてしまったことなど記憶には残っていないだろう。
・・・・それで、いい。
僕も、この件に関しては心に蓋をすることに決めた。
とにかく進藤が戻って来なくては、何も始まらない。
僕はあの日、進藤に・・・意識のない進藤に宣言した通り、
脇目も振らず、ひたすら上を目指し続けていた。
今日は本因坊戦、三次予選決勝。
今日、勝てればリーグ入り。
相手は荻原九段。
仮にも九段だ。
そう簡単に勝てる相手ではない。
リーグ入りを果たしたいのは僕だけではない。
荻原さんだとて、何が何でもリーグ入りしたいだろう。
しかし。
僕は勝たなくてはならない。
なんとしても。
・・・・・・。
進藤、来い!
僕はここにいる!!
そして奇跡は起こった。
突然、僕の前に現れた君。
その瞳はあの時とは全く違っていた。
生気に、決意に溢れていた。
「何しに来た?」
僕は恐る恐る問いかけた。
すると君は言った。
ハッキリと・・・明言したんだ。
「塔矢、俺・・・俺、碁をやめない。
ずっとこの道を歩く。
これだけ言いに来たんだ。お前に。」
この時の僕の喜びが、君にわかるだろうか。
戻って来たんだ、進藤は。
全力で上を目指していれば、必ず君が来ると・・・・僕は・・・信じて・・・・・。
君の瞳。
強い意志に輝く、君の瞳。
僕だけを見据える、君の大きな瞳。
待っていて・・・良かった・・・・。
「・・・・・・・追って来い!」
────はじまった。
僕はそう感じた。
君に初めて出会ったあの時に、僕等の運命の歯車が噛み合い動き出して
そして今、新たな「始まり」を迎えたんだ、と。
追って来い、進藤。
君ならすぐに上って来られるだろう。
僕がたった一人認めた君ならば。
saiを振り切れた君ならば。
僕が見つめるのは・・もう、saiではない。
進藤ヒカル。
君なんだ。
saiの謎。
いつか、君は話してくれるだろうか。
・・・・・・。
それから、歳月が流れた。
様々な事があったが、その最たる事として上げるならば
驚くべきことに、進藤と僕が今、恋愛関係にある事だろう。
そうなった過程は・・・まあ、いいだろう。
中国へ行ったきりの父、母。
僕一人の塔矢家へ、今日も進藤はやってくるだろう。
付き合い始めてから、それなりに時は過ぎたが
saiの謎は、未だ謎のまま。
「お前には───そうだな。いつか話すかもしれない。」
君はあの時、そう言ってくれた。
あの時、僕はつい、「やはり謎があるのか!話せ!」などと詰め寄ってしまったが。
君が僕のものとなった今、君の気持ちの整理がつくまで待とう・・・と思える。
あの頃の僕はかなり余裕がなかった。
今、思い返すと少々恥ずかしくなる程に。
僕が君を追えば、君に酷く落胆させられて
でも君はひたひたと確実に僕に迫って来た。
次第に明らかになっていく君の実力。チラつくsaiの影。
知りたい、知りたい、君の本当の力を・・・君の事を、と・・・
僕が今までの意地をかなぐり捨てて、そう思った矢先に囲碁界から姿を消そうとしていた君。
怒り、苛立ち、焦り、そして謎を知りたいという欲求・・・・そんなものの塊だった。
でも、君が囲碁界に戻ってからは・・・僕と君の気持ちが通じ合ってからは・・・・。
いつまででも待てる。待とうと思える。
君は約束してくれた。
saiはもう、いない。
もういないけど、君の碁の中に・・・いる。
それだけは分かる。
君は何も言わないけど、分かる。
「と〜や〜!いるか〜〜〜!?」
進藤だ。
僕は思わず微笑んだ。
立ち上がって出迎えようと思ったのだが、既に進藤はこの家に入りびたりの状態なので
勝手知ったる、とでもいう感じで僕の返事も聞かずに上り込んできた。
「なんだ、いるじゃないか!いるならいるって言えよ!」
「・・・・。今、玄関に向かおうとしてたんだ。君にはここが人の家だという自覚があるのか?」
「いいじゃねーか、別に。塔矢先生は中国なんだし、お前しかいないって分かってたから上がって来たんだ。」
僕はため息をつく。
進藤の開けっぴろげな性格は、きっと一生変わらないだろう。
無防備すぎて、時々心配になるが・・・。
「今日も塔矢の家に泊まるって言ったらお母さんがこんなにたくさん、おかずを持たせてくれた。」
進藤が無邪気に笑う。
「あ、並べてたのか。」
進藤は碁盤に気づいて興味深そうに覗きに来た。
が、石の並びを見た瞬間、固まってしまった。
「・・・・秀策・・・・。」
「ああ。秀策からは学ぶものは多い。君も相当の秀策好きだったな。」
「・・・・・・。碁の・・・神様だよ、秀策は。」
この瞳。
秀策の話をする時のこの瞳、そして・・恐らくsaiを想っている時の君の瞳。
同じなんだ。
少し哀しみを含んだ、でも遠い幸せに思いを馳せるような・・・・。
口元に小さな笑みを浮かべて、遥か彼方を見つめる、不思議な輝きを湛えた君の瞳。
saiと秀策。
もしかしたらここに鍵があるのかもしれない。
「ここ。この秀策の一手。上下左右、八方睨み据えた、すごい手だよな。」
・・・・・・・。
僕は未だに不安になる。
進藤のこんな瞳を見ていると、君がその「遠く」に行ってしまうのでは、と。
「こんな一手を・・・・俺も打ちたい。」
「───その時の相手は・・・僕でありたい。
僕はそんな君の一手に必ず応えてみせる。神の一手は、君と僕で極めるんだ。」
「塔矢・・・・。」
唇を交わしていた。
君の打つ碁が君の全て。
僕の打つ碁が僕の全て。
互いの全てをぶつけ合い・・・・。
君と僕は、そうやって生きていく。
「打とうか。」
「ああ。」
この広い碁盤の上で、今日はどんな宇宙を創るのだろう。
君と二人で、ずっとこの道を。
end
ヒカルが好き過ぎるあまりに、全く余裕のなくなってしまったアキラを書きたかったんです。
なのにヒカルは佐為しか見ていない。
それに痺れを切らして勢い余ってキスしてしまうアキラ、というのがまず浮かんで書き始めた話でした。
だからといって、ウダウダ悩み過ぎですね。
それに、かなり無理やりな展開になってしまいました(涙)。
ヒカルは「いつか」話すんでしょうか、佐為の話を。
アキラなら、「馬鹿な・・」と言いながらも結局は受け入れてくれそう。
でも、ずっと謎のままであって欲しいとも思う。
アキラにとってはヤキモキ・・でしょうが。
ここまで読んで下さり、ありがとうございました。
(2009.11.25)